赤誠の心

「赤誠の心」を辞書で引いてみると、嘘偽りのない心、真心と出てくる。

非常にきれいな言葉だと思うが私はあまりこの言葉が好きでは無い。

明治維新の時新政府が興り、新政府は外敵からの侵略に備え、海軍、陸軍の整備、西洋化に忙殺された、何よりも最新の軍の知識を吸収しなければならない…

英語、フランス語、ドイツ語等に長けた人材や経理、西洋の知識に明るい人材がとにかく必要だった。

今まで、刀を振り回し偉ぶっていればよかった時代から一気に変わり、職にありつけない元士族の階級があふれた、新政府のやり方についていけない者は西南戦争で西郷隆盛と共に滅んだり、なけなしのお金で商売に挑戦する者もいたが何より知識が無いし、今まで商人で食っていた者には適わない。

維新の雄である薩摩、長州、土佐出身の者であれば門閥での雇用もあった。

薩長土出身でない者は、過去が農民であろうと武士であろうと、一定の暗記能力と根気さえあれば学者や博士、将校にでもなれる、そういう時代だった。

維新の立役者であった岩倉具視の元に有名なお坊さんが訪ねてこられた。

要件は自分を新政府に雇って欲しいとの事。

岩倉は西洋の近代化を直に目の当たりにしている、世界を回り不平等条約の改正に尽力したが至らなかった…世界での日本の立ち位置を嫌という程思い知っていた。

岩倉は高僧に「具体的に何が出来るか」と質問すると、

高僧は「国を思う赤誠の心だけはあります」と答えた。

今の話の流れから、岩倉が高僧を相手にしなかったのは言うまでもないだろう。

現代でいうと「やる気だけはあります。一生懸命やります。気持ちは誰にも負けません」

という言葉だろうか、その言葉が通用するのは若者までである。

若いときは何をするかが重要であるが、年を取ると何をしてきたかが重要になってくる。

メディアや世間は夢を追う事の大切さや、諦めない事の重要さを一握りの成功者の例をいい所だけ前面に出して伝えるが、その陰で負けていったものの事を伝えない。

一握りでない我々は、日々コツコツと努力を積み重ねていくしかないのだと思う。

成功している方々は我々以上にすさまじい努力をしている事は言うまでも無いので、その差を埋める事は中々難しい。

勘違いして欲しくないのは、筆者は高僧の今までやってきたことを全否定する訳では無い。先祖代々のお寺を守り、死者を弔ったり、悩み苦しむ方々の相談にのり、仏の道を伝え人生に希望を持たせる…実に素晴らしいお仕事だと思う。

岩倉に面会出来る程であるのだからそれなりの事を今までやってきたのであろうが、日本を侵略しようとしている相手に仏の心などを説いても意味がない。

言い換えるなら高僧は転職しようとして、今までと全く違った業界に挑戦しようとしているのである。

だからこそ自分の立場を理解し、「赤誠の心」という言葉で誤魔化して欲しくないのである。

私であれば、岩倉に「新政府にとって今何が必要なのでしょうか」と問い、

英語と言われればそれを勉強してまた一年後来るので話を聞いて下さいと言うだろうか。その話が出来るだけで、岩倉の対応も変わったのではないのかもしれない、

さて偉そうなことを言った筆者はどうなのかというと、韓国へ日本酒販売の為視察に行ったのだが、言葉の壁に打ちのめされた。

日本酒を売りたいという赤誠の心だけでは通用しなかったのである。

韓国の方々は岡山のお酒を美味しいと言って下さったので可能性はあると感じた。

だが、実際に売り込むには、契約条件、物流、マーケティング様々な問題が出てくるので、言葉の壁はなんとしてでも解決しなければならない。

焼石に水かもしれないが、何かを変えなければ道は開けない。

今日からスタディサプリをインストールしてみたり、ハングルのテキストを買ってみようと思う。